大事な幼児期を小学校受験に割くのはやめた。娘と一緒に科学やテクノロジーを楽しむ理由

Education Strategy
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私は長女の小学校受験を経験し、このシステムに価値を感じなくなった。中学受験のレースに参加する気もない。

幼児期という脳が最も柔軟な時期を、既存の正解をなぞる訓練(詰め込み)に費やすのは、あまりにもROI(投資対効果)が悪すぎるからだ。

都心で子育てをしていると、評判の良い学校に入れたいと言う親が多い。しかし、私が最もリスクだと感じるのは、学校や塾という閉じた世界しか知らない人々に、わが子の教育の全権を委ねてしまうことだ。

彼らは学習指導要領を教えるプロかもしれないが、実社会でビジネスがどう動き、テクノロジーがどう世界を変えているかというリアルな社会を知っているわけではない。

これから到来するAI時代に向けて、社会構造が変わろうとしているのに、旧来のシステムの中に子供をどっぷり浸からせることこそ、親として避けるべき最大のリスクだと私は判断した。

だから、私は教育を外注(アウトソーシング)しない。 幼児教育や小学校受験の実情を見て以来、社会の現場(外資系メーカーエンジニア・PM)を知る私が、子どものOSを設計しなければと思うようになった。


使うのは「中学受験用のテキスト」と「IBの思想」

誤解のないように言っておくと、私は学習そのものを否定しているわけではない。

むしろ、我が家では大手進学塾で使用されているハイレベルなテキストを使用している。日本の受験産業が作った教材は、非常によく練られた「良質なデータベース」だからだ。

だが、使い方が違う。それを「解法を暗記して、処理速度を上げるため」には使わない。

娘たちが幼児期に浸ってきたIB(国際バカロレア)、特にPYP(Primary Years Programme)のメソッドに基づき、概念(Key Concepts)を探究するための材料として使っている。

IB校では知識(What)だけでなく概念(Why/How)も重視するが、学校ではやり方(知識)しか教えない。 だからこそ親である私の出番だ。

私はその知識の裏側にある科学の成り立ち(概念)を語るようにしている。


1メートルが決まるまでのストーリーを語る

私が学生時代に理数系の授業で不満だったのは、先生が「1m = 100cm」という等式は教えてくれても、なぜその基準を作る必要があったのかというストーリーを教えてくれなかったことだ。

だから私は、娘を国立科学博物館へ連れて行き、単位の歴史を説明する。

「昔、日本は『尺(しゃく)』や『貫(かん)』を使っていたんだ。でも、国ごとに長さの基準が違うと、海外と貿易する時に困る。だから世界共通の言葉として『メートル』に統一したんだ」

そして、地球の子午線の長さから1メートルが定義された経緯や、明治政府が世界に合わせて度量衡を統一した歴史を話す。

そこには、便利さを手に入れるための、先人たちの壮大な苦労がある。さらに、展示されている「キログラム原器(の複製)」を見せる。

「長い間、この金属の塊が『1キログラム』という重さの基準だったんだ。世界中の重さは、これに合わせて決められていたんだよ」

このように説明すると、単位が単なる計算ドリル上の文字ではなく、社会を支えるインフラのひとつとして伝わる。

学校の先生は指導要領の範囲でしか教えないかもしれない。 しかし親ならその枠を超えて、社会実装の視点を与えることができる。


テクノロジーを「魔法」で終わらせない

インプット(観察)の次は、理解(実装)だ。

私が子供に教えたいのは、高度なプログラミング技術ではない。「コンピューターは魔法の箱ではなく、論理で動く道具だ」という感覚。

そのために、今はmicro:bit(マイクロビット)を使っている。

画面の中だけで完結するゲーム作りはさせない。「どういう命令を書けば、LEDが光るのか?」「加速度センサーを振ると、なぜ数字が変わるのか?」

この「入力(Input)→ 処理(Logic)→ 出力(Output)」というエンジニアリングの基本構造を、自分の手元で確認させる。

ボタンを押せば電気がつく。それは魔法ではなく、誰かがそう設計したからだ。

今はまだLEDを点滅させる段階だが、この仕組みを肌感覚で理解しているかどうかが重要。次はRaspberry Piを使ってもう少し本格的な制御へ進む予定だが、焦る必要はない。

重要なのは、世の中にあるブラックボックスを、一つずつ開けていく姿勢なのだ。

都心居住の特権を「年パス」で使い倒す

では、具体的にどう実践しているのか。 机の上で口だけで説明するのではなく、地の利を徹底的に使う。

都心部に住む醍醐味の一つは、国立科学博物館や美術館、大学の研究施設、動物園や水族館といった本物に、ものの30分でアクセスできることだ。 これを利用しない手はない。

我が家は主要な施設の年間パスポートを持っている。価格はたった数千円。塾の月謝の何分の一だ。

これさえあれば、「元を取ろう」と必死になって長時間見る必要がない。週末にふらっと行って、1〜2時間過ごして帰ってくる。それを毎週のように繰り返す。

学校の校外学習は年に一度のイベントだが、我が家にとって博物館は日常の一部だ。 この圧倒的な頻度の差が、子供の感覚を変える。

上野の文化施設群が提唱する「Museum Start あいうえの」というプログラムがあるが、そこでは「知識を得ること」以上に「面白いと感じること」が重要視されている。

毎回学びがある必要はなく「なんかこれ凄い」「面白い形」でいい。好奇心の「種火」を絶やさないこと。

これは、カリキュラムに追われる学校には絶対にできない。 フットワーク軽く子供の手を引ける、親にしかできない教育だと確信している。

図鑑ではなく「本物の寄生虫」を見に行く

例えば、図鑑やテキストに載っている昆虫や植物の図は、綺麗にデフォルメされすぎている。だから我が家では「目黒寄生虫館」などの変わった施設にも通う。

「寄生虫なんて気持ち悪い」と大人は思うかもしれない。 しかし、子供の目で見る数メートルのサナダムシや、宿主を操る寄生虫の生態は「生命の複雑さと巧妙さ」そのものだ。

そこには、ペーパーテストのような正解はない。あるのは、進化の過程で生まれ圧倒的なリアリティである。 この複雑な世界を「気持ち悪い」で終わらせず「すごいシステムだ」と面白がれるかどうか。

この「好奇心」の種まきだけは、塾任せにはできない重要なミッションだと考えている。


結論:セロトニンの構造式を「欲しがった」娘

こうした「反・詰め込み」「実体験重視」の教育を続けた結果、面白いことが起きる。

以前、次女(6歳)を科学博物館へ連れて行った時、彼女は「目には見えないけれど、全ての物質は原子や分子でできている」という事実に強く興味を持った。

私はその様子を見て、帰りにミュージアムショップで元素記号表の下敷きを購入し、さらに後日、分子構造模型を買っておいた。

最近、長女とあるお店に行った際、セロトニンの構造式が彫られたレザーのブックマークが欲しいと言ってきた。 理由を聞くと、シンプルに構造式の形が綺麗で好きだからと言う。

帰ってから家にあった分子模型を使い、長女と一緒にセロトニンを組み立ててみると、長女は満足そうに眺めていた。

もちろん、彼女たちが私の語る科学史や理論をすべて理解しているとは思っていない。正直、半分も分かっていないだろう。

でも、それでいい。 大事なのは、その「本物の環境」に身を置いた時、彼女たちが頭を働かせ、何かを「面白い」と感じることであり、強制はしない。

少なくとも、娘たちが「パパ、またあそこに連れて行って」と言ってくれる間は、このお節介な家庭教育を続けようと思う。